カイロ (エジプト)について |
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カイロは、エジプトの首都。ナイル川河畔の交通の要衝として中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じてイスラム世界における学術、文化、経済の中心都市でありつづけた中東屈指の大都市である。現在においてもカイロ首都圏の人口は1525万人(2004年)を数え、アフリカ大陸、中東地域いずれにおいても最大の人口を有する。
エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ中央、要の位置にあたり、イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。
日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラ(القاهرة al-Qāhira; 現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスル(مصر misr; 現代エジプト方言ではマスル)という通称がよく用いられる。ミスルの名は、この町を首府としてきたこの地域の地名としてアラビア語に取り入れられ、アラビア語で「エジプト」のことをもミスルと呼ぶようになっている。
カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。
639年にエジプトへの侵攻を開始し、東ローマ帝国の駐留軍を破ったイスラム帝国軍の将軍アムル・イブン=アースは、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、フスタートの名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。
フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所、トゥールーン朝、イフシード朝の首都を経て、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍によって征服された。ファーティマ朝はフスタートの北3km郊外の地点に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル=カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。
1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロに城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも指定されている。
しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方州の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞したが、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。この近世カイロに現れた軍人ムハンマド・アリーがナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征後の混乱をぬって台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝のもとで都市の近代化が進められた。とくに19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャのもとでパリの都市計画に倣った新市街が旧市街の西側に建設され、20世紀にはさらに郊外のヘリオポリスなどに高級住宅街の開発が進められた。
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
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